えのっきーのプロフィール

初めまして、えのっきー (@enockey0612)です。
です!

「ちょっと、あなた誰なんですか?」
と言われないよう僕のプロフィールを書いたので、ゆっくり読んでいってください。

詳しくぼくの全てを知ってほしいので、長くなっていますが、よかったら昔話を聞いてください。

簡単なプロフィール

名前:榎大輔 (えのきだいすけ) えのっきー 男

1994年愛媛県/松山市生まれ。高校卒業まで愛媛の済美高校というところで野球漬けの毎日。その後、大学進学のため大阪へ。関西大学の社会安全学部を卒業しています。

野球は怪我をして断念。大学時代ひとり旅をきっかけに、カメラに購入し写真に興味を持ちます。その後、撮影が人とコミュニケーションを取る手段になることの素晴らしさに感動し2015年2月から株式会社Lovegraphでフォトグラファーとして本格的に活動。

前撮り、挙式撮影、家族写真、宣材写真などの人物撮影を中心に活動し、撮影組数は200件を超える。

その間に、怪しい大人に騙された経験で自分をしっかり持つことの大切さを痛感し、大学後半の二年間は仕事以外引きこもりのような生活。一度は就職活動をするものの一つも会社面接に受からないという事態となんで就活やっているか最後まで分からなかったことをきっかけに新卒フリーランスカメラマンとして独立。

現在は関西を中心に個人、法人問わずあらゆるジャンルの撮影で幅広く活動中。 その傍らビジネスデザイン会社CLAITEでプロダクトマネージャーとしての活動もしています。

そして、こちらのえのっきーは榎大輔のポートフォリオ兼ブログメディアです。ライフスタイル、クリエイター活動、お金のこと、日常の面白いこと、伝えたいことを過去の自分に言い聞かせるように発信しています。

モットーはひとりぼっちの味方で居続けること。

ぼくと同じようにスポーツでの挫折を乗り越え、自由でやりたいように生きられるという自信が湧き出てくるようなブログにするのが目標。

メディア掲載実績

女性ファッション誌 「ar」 8月号 写真掲載

特徴

  • 24歳
  • 身長183cm
  • 生粋の日本人
  • はらだたいぞう似
  • 香川生まれの愛媛育ちで現在大阪で一人暮らし
  • 毎日必死な顔して生きている

というのが現在のぼくことえのっきーの特徴と状況です。

〜生まれてからこれまでの道のり〜

 

ようやく始まるぼくのストーリー。

ただ、真面目に書きたい気持ちが強すぎて、すごい難しい感じの文章になっていると思います。

 

ですので、今後も時間を見つけては修正、改善を加えていきますね。

誕生から中学校まで

 

この項目の全容

  • 香川県丸亀市で誕生し愛媛で育つ(誕生~小学生)
  • ドヤ顔ピッチャー えのき誕生 (中学時代)
  • 小4から憧れつづけた強豪校 (中学校→高校)

 

香川県丸亀市で誕生し愛媛で育つ。(誕生~小学生)

(写真の右が僕、左が弟。自分史上一番可愛いときです。)

小さな頃は外で遊ぶことと家でゲームすることが大好き。
自分が得意なものにどんどんのめり込んでいくタイプだったような気がします。
小学生時代の僕は外でソフトボール。家に帰ってきてからはひたすらゲームという毎日を過ごしていました。

 

そんなぼくの家庭事情は、小学6年生のときに訳あって両親が離婚。
母さんと弟と3人暮らしになったため、ぼくは生粋のお母さんっことして育ってきたんです。(父親とは仲良い関係)

 

そんな当時1つだけ嫌で嫌で仕方なかったことがありました。

 

それが・・・・えのき』という名前。
この名前でめっちゃいじられまくりました。

 

特に家庭科の授業。

教科書に白い野菜で登場するキノコ、通称「エノキダケ」と呼ばれた瞬間に自分の人生が終わったような気がしたのを今でも覚えています。

 

ただ、今では「えのき」って言う名前が好きです。めちゃくちゃ覚えてもらえます。

 

ドヤ顔ピッチャー えのき誕生 (中学時代)

中学時代は一言で言えば野球一色の毎日。

 

小学校からソフトボールを続けていた流れで、ぼくは学校の軟式野球部に入部しました。

 

ポジションはピッチャー。

 

砲丸投げで県2位になった祖母譲りの強肩と身長を活かして、1年生の頃から活躍することができました。

 

そこからピッチャーを極めることにはまります。

いつしか市内では有名なピッチャーになり、中3の頃にはノーヒットノーランや完全試合を達成するようになってましたね。

 

それと同時にぼくのドヤ顔がすごいねと言われるようになりました。

今は全然していないつもりですが、ぼくがドヤ顔していたら、この頃にあいつのドヤ顔は完成されていったんだなと思っていてください。

 

小4から憧れつづけた強豪校 (中学校→高校)

「甲子園に行きたい」

野球少年の誰もが思うようなことをぼくも思うようになっていました。

 

そんな自分が当時行きたかったのは野球環境が整っている私立高校。

 

その私立高校のなかでも、特に行きたかったのが地元愛媛の「済美高校」

全国的にも名の知れた甲子園常連の名門校です。

ちなみに行きたいきっかけを与えてくれたのがこの試合↓

 

あの若き頃のダルビッシュ選手率いる高校を下す劇的な試合展開に当時小学生のぼくは一人号泣。

 

最後まで諦めない姿に胸をうたれ、自然と済美高校に憧れを抱くようになっていました。

 

ただ、私立に行くには大きな壁がありました。
それがお金。

ぼくの家は母さん一人が頑張る家庭事情だったこともあり、私立に行く道として残されていたのは、特待生でお金を免除してもらうことぐらい。

これが現実でした。

ただ、そんな中、「高校の体験入部で印象に残った選手は特待生になれるかもしれない」という話を風の噂で聞いたんです。
ぼくは、それを信じて、済美高校の体験入部の参加を申し込みました。

 

自分を信じて全力投球。
硬球を握るのも初めてでしたが、ぼくは己の右腕にかけました。
 

 

 

すると、奇跡が。

 

 

 

体験入部のプレーで目をつけてもらい・・・・

 

 

 

なんと済美高校から特待生のお誘いがあったのです。

 


よっしゃー

 

 

「奇跡は起きるものじゃ無い、自分で起こすものなんだ」

 

 

 

もちろんドヤ顔でこのような眩しい一言を言わせてもらいます。

 
結果として2つの高校から特待生としての誘いがあり、無事ぼくは行きたい高校に行く権利を手に入れたのです。

 

そこから中学卒業するまでは、得意のドヤ顔の毎日。ただ、親や周りからはお前は無理ちゃうかという声がありました。

 

それでも、選ばれたということで自信に満ち溢れたぼく。

 

最後は母さんも中を押してくれたので済美高校で野球することに決めます。

 

不安はもちろんあったけど、リスクをとってでも行きたい道に進むという今のぼくの当たり前をつくるきっかけになりました。

 

高校時代

ぼくの人生史上一番辛かった時期。
 

もちろん、まだまだいろんなことがあると思います。
それでもこの頃の経験が今の心の根底にある、こう生きたいという原動力なのは確かです。

 

この項目の全容

  • 甲子園の夢をここ、済美で叶えるんだ!(高校時代)
  • おいガンダム、ちょっとこい (高校時代)
  • 恥ずかしいくらいダサく怪我をする方法 (高校時代)
  • アリ地獄状態。(高校時代)

 

甲子園の夢をここ、済美で叶えるんだ!(高校時代)

(写真右から2人目。えんぴつで書いたような薄い背中がぼく)

 

冬場にトレーニングを積み重ね、ついに済美高校に入学。

済美高校に榎あり・・・・・
甲子園出場・・・・・
周りからもキャーキャー言われたい・・・・・
最終的にはプロ野球選手になる・・・・

という感じで夢で頭の中がいっぱい。

えのっきー
済美高校で野球ができる

そう、念ずるだけで力が湧いてくるぐらいでした。

えのっきー
絶対に甲子園にいこう!

同級生にもキラキラした目とドヤ顔で呼びかけていました。

 

おいガンダム、ちょっとこい (高校時代)

夢に満ち溢れた気持ちで入学して、まもない4月下旬。

練習のアップで土手を走っていたときのことです。
妙に足がチクチクすることに気づきました。

「まぁ、明日にはなおるだろう。」

そう思ってやり過ごしてたのですが・・

なおるどころか、日に日に痛みは増えていき・・・
ついに耐えきれなくなって、病院で検査。
そしたら病院のおじさんが躊躇なくさらっと「左足疲労骨折だね」と一言。

えのっきー
うそやろ、入学して1ヶ月もたってないのに・・
なにをして怪我したん?
怪我は早すぎやろ!

先輩や同期にそれでむちゃくちゃ笑われました。同じ練習をしているのにまじかよって。

誰よりも一番ぼくが驚きました。

 

そして笑われる原因がもうひとつ。

 

それは、『ガンダム』みたいな容姿でした。

足には美容室でパーマの時につける青いナイロンみたいな被り物。

 

また、雨の日には黄色いビニールぶくろを足にかぶる姿。

つまり、サイボーグのような格好だったんですね。

そんな姿でグラウンドを歩けばそれは目立つ。目立つ。

 

先輩
ガンダムやん
ぼく
はい・・・
先輩
 おい、ガンダムちょっとこい!
ぼく
はい・・・

この頃にはすでに期待の新人と言われ、試合で投げていたはず。

 

でも、現実は周りに褒められるどころかガンダムとしてネタにされてる。

 

この理想と現実のギャップに苦しみながら、けがをきっかけにぼくはいじられキャラになっていったんです。

 

恥ずかしいくらいダサく怪我をする方法 (高校時代)

1年生の8月ごろにようやく怪我から復帰。そこから猛アピールに成功し、新チームのメンバー決めに大きく関わる関東遠征の切符をつかみます。

 

そんななか迎えた遠征前日の練習後。

同級生
えのき、肩パンやらない?
うん・・・やろうか!(正直やったこともない)
同級生
どっちからやる?
ぼくはどっちでもいいよ
同級生
じゃあ俺からいくわ。  ドッン。
こっちも遠慮せずいくで(震え声)

うりゃーーーーーーー 

 

ッビーーーーン・・・!!
(あれ?なにこれ?殴った手がめちゃ痛いんやけど、え、まさか。肩パンで。まさかこれ。。。)

 

親指から手首までの神経座礁

 

そう、肩パンでやっちゃったのです。もう、関東遠征どころではありませんでした。

 

まず、投げられない理由がめちゃダサい。肩パンで手を痛めたので投げれません。こんなこと言ったら監督にボロクソ言われてしまう。

 

もちろん、肩パンで怪我したとは口を裂けても言えなかったので、「シャドーピッチングをやっていて天井に指がぶつかりました」と野球に絡めたら嘘の言い訳をしたのです。

 

しかしそんな小手先の嘘が通るわけがなく、

監督からは

・・・どうすらぁ!!
と呆れ顔でこの一言。

 

遠征中コーチには

おっえのきは遊びに来たんかね
とみんなの前で言われてしまい、信用はガタ落ち。

これでぼくの新チームメンバー入りはおさらばになりました。

 

そして、もう、ここでいっちゃいますが、ぼくはそのあともいろいろあって、高校時代まともにプレーすらできていません涙甲子園行くとかの問題じゃなくてその以前の問題。

 

ひとつひとつ言ってもいいのですが、それだけでプロフィールが終わりそうなのでここにまとめておきます。

 

〜ぼくが引き寄せてしまったわざわい〜
(1)土手ランで疲労骨折(1年生4月~8月)
土手を普通に走っていたら疲労骨折。言葉が出ませんでした。
(2)肩パンで思い通りに投げられない、(1年生8月~10月)
練習後、同級生に誘われた肩ぱんで親指神経座礁。
親指を拳の中に入れて殴ってはいけない事を学びました。
(3)ロープ登りで落下。 (1年生11月~2月)
ロープ登りの練習中に、地上4mのところから何を思ったか手を離してしまい足から落下。病院での診断結果は、右足首疲労骨折。
(4)イップス(やすり事件)  (1年生3月~2年生8月)
投げる指が荒れてたので、少しやすりで削ってみました。すると、指の指紋が消えてツルツルに。おそらくそれが原因でまともに指がボールにかからなくなります。その頃の投球はデッドボールが当たり前。時にはバッティングゲージを超えることもありました。
(5)ひじの異常。(2年生1月~3年生4月)
冬の練習の途中に急に遠投の距離が伸びなくなったことがきっかけ。MRIや病院の検査をするも異常はなし。肘の内旋ができなくなる症状はでており、その結果まともに投げられなくなりました。つまり、自分の取り柄であった投げることを失い、人生第一幕にピリオドが打たれたのです。
(6)バケモン足首 (3年生5月~3年生6月)
ちょっと踏ん張っただけで足首が捻挫。この頃に、監督から学生コーチとして最後を迎えてくれと打診がありました。おそらくぼくの体でバケモノみたいな箇所が足首。走り方もちょっとおかしいです。

薄々気づかれてると思いますが完全に超ドジっ子。

 

この頃は、誰にもできることができない自分を自分自身でも攻め続けてしまいました。

 

アリ地獄状態。(高校時代)

(おそらく人生で一番暗かった時期)

当時、日本でも10本の指に入るくらい練習が厳しかったぼくの高校。怪我ばかりして練習のサポートに回る自分が楽にみえてしょうがなかったのか、

えのきはいつも楽そうだ

 

〜ができていない

と、周りから常に強く当たられていました。

 

先輩からのいじり

(一発芸をやるうちに開発されたえのっきっくすきゃのん。)

けが人は何も喋るなと言われたことをトラウマに、何事も従うしかないと思っていた当時は思考停止状態。なんでも、はいはい言ってました。その後、徐々に要求がエスカレート。特に一発芸をやらされるのがおっくうでした。

ぼくは自分を守るために全力で一発芸をやりました。ただ、全力でやる姿が面白いのか思うよりうけてしまい、先輩に会うたび一発芸をやらされるようになったんです。

グラウンドに何をしに来ていたのかわかりませんが、その当時は自分が生き残るために必死だったのだと思います。

それでも、ここではまだ笑ってもらえるからなんとかなりました。

 

暴力

いじられるだけなら良かったのですが、物理的に痛いから辛かったです。

いじられるが日に日にエスカレートし、上級生からは手伝いが遅いとかなんとかで、練習後部室や室内の練習場に呼ばれ暴力行為をうけることになったんです。

 

 

今はこんなことはなくなってきたかと思いますが、当時の済美高校ではこんな暴力が当たり前みたいに蔓延していました。

 

同級生からの攻め

先輩ならまだしも、同級生に何か言われたりされたりするのがいちばんこたえました。
遊び半分やったとおもいますが、母さんが作ったおにぎりを隠されたり投げられたことが一番悔しかったのをよく覚えています。

 

何もできずくやしかった。

もちろん、「けがをしたくてしたわけじゃない」と言い返したこともありましたが、練習をしていない自分には立場がありませんでした。

そうなると、どんどん孤立していき、いつのまにかひとりぼっちになっていたんです。

今思えば済美高校は全国で指折りの練習量で、練習時間だけでなく、練習内容もびっくりするような高校でした。

当時四国の昔ながらの野球を牽引する上甲監督の元、うさぎとびや、ペッパーと言われる昭和のど根性野球が繰り広げられていたのです。

なので、そんな野球の理不尽さに皆が不満をもっていたことは事実。

そのはけ口として、怪我をしてグランドで手伝いして楽そうにみえるぼくに当たってしまう背景を今になって理解することができました。

ただ、当時はけがした自分がどうして責められなければならないのか、そしてなぜ殴られなくちゃいけないのかその理不尽さに悔しくてしょうがない毎日を送っていました。

 

それでも野球を続けられた理由

すぐに野球をやめればよかったかもしれませんが、特待生入学したという理由での学費免除、母子家庭であるという状況からやめないことは自分に約束していました。

正直、毎日朝が来るのが嫌で嫌でしょうがなかったぼくがなんとか野球を続けられたのは一人の同じ野球部員と母の存在でした。

彼はたまたまだったかもしれないが、ひとりでいるぼくをみつけると一緒に帰ってくれる。

母は何も言わずに夜遅く帰ってくるぼくのごはんを作って待ってくれていました。

特別なことではないのかもしれないけれど、そこにいる存在を感じるだけでぼくは救われたんです。

もし、あの時、野球部の友達や母の存在がなかったら今こうやって生きていたのだろうか。

そう思い返すぐらい毎日の暗闇をさまよっているなか、味方にいる人の存在に心の底から感謝することになりました。

 

ぼくが大切にしようと思ったこと

味方だと思う人の存在のありがたさに感謝すると同時に

「自分もひとりで辛い思いをしている人だけは見捨てないし、絶対に守ろう」

それだけは強く強く決意したことを覚えています。

今は体制も代わったはずですが、ぼくらの時代になっても後輩をボコボコにする風習が漂っていました。

同級生に殴られる怖さはありましたが、その信念だけは強くもっていたので、見かけたらなるべく止めに入ったんです。

案の定やられたこともありますが、決意したことを心の奥底でずっと大切にして生きてきました。

この高校時代に抱いた想いこそがぼくの原点であり、これからぼくが生きるための原動力です。

 

高校時代〜大学時代

初めて知れることがたくさんありました。
大学には行ったらいけないような人間でしたが、ラッキーでもいけたことに感謝したいなと思っています。

 

この章は、めちゃくちゃ強がっている感じで書いているので、こちらも時間を見つけては修正を加えていきますね。

 

この項目の全容

  • 謎の制度で関大に合格(高校時代→大学)
  • 47都道府県ママチャリ野郎に出会えたこと(大学時代)
  • 好きなことで生きていく〜直感で休学〜(大学時代)
  • 就職活動をやってみる。
  • そもそも大学にはいれたんだ(大学4回生)
  • アホすぎて不安がない (大学卒業)

 

謎の制度で関大に合格(高校時代→大学)

(一番後ろの列の左から2番目が僕。その横がなんとプロ野球選手の安楽投手)

話を戻しますが、最後まで諦めなかったぼくは、高校野球生活集大成の夏の大会前にベンチ入り。
いつかでれると思いながらも、最後の試合もバット引きで試合終了。
ピッチャーとして甲子園どころか、最後の夏は試合に出ることもできずに僕の高校野球生活が終わりました。

 

周りが涙を見せる中、ほとんどでませんでした。ぼくの心は不完全燃焼の塊だったからです。

 

そして、部活を引退してからは進路決めの時期に突入。高校3年間所属したスポーツ科学コースは、基本的に競技を続ける前提で大学や社会人に進む人がほとんどでした。

 

しかし、肘を痛めて野球を続けるのが困難な自分はそんな考えにはいたらず、とりあえず、大学に行った方がいいと周りの先生や親に勧められて進学します。

 

そして、ここから受験勉強モードといいたいところですが、僕は受験勉強をせずに関西大学へ進学することになります。

この謎の仕組みは、指定校推薦。

まあ、よくある指定校推薦といわれたらそうなんですが、済美高校は四国有数のマンモス校で、勉強や内申点だけでいえば僕よりできている学生はたくさんいました。
じゃあどうやって推薦もらえたのかというと、実は、自分の高校では、スポーツをしていた学生から指定校推薦の枠を取得できるような仕組みになっていたのです。

 

そのスポーツをやってきたから活用できた謎の制度と、内申点のおかげで、偶然空いてた関西大学の指定校枠を取得。
そんな感じでまたも運良く進学しましたが、野球ができないことに絶望して勉強頑張った自分を少しだけ褒めておきます。

 

47都道府県ママチャリ野郎に出会えたこと(大学時代)

勉強がんばってきて入学した人がほとんどなのに、こんな自分が大学にきていいのか。

これが正直な感想でした。

それで、今から普通に勉強するだけじゃ大学で居場所がなくなっちゃうと思い、人と違うことをしようと心の中で決めていたんです。

 

そして、初めて迎えた大学1回生の夏休み。同じ大学の友達に「えのきたびいかない?」と誘われました。

その友達は、高校生の頃からママチャリで47都道府県を回る旅してるという野生児みたいなツワモノ。

子供の心をわすれずにキラキラしている姿にぼくは大学で彼をみるたびにすごいなと思っていました。

 

もちろん、彼に惚れていたので、誘いに対してすぐにYESと返事しました。

 

(野生児みたいなつわものの彼が真ん中。絵心もすごいんです。)

初めての旅では、ヒッチハイクを経験したり、ペニーを乗りながら移動したり、そこには知らない世界が広がっていました。

野球以外に夢中になれるものを見つけた感覚がとても刺激的でした。

(初めてのヒッチハイク。車内での会話カミカミでした。)

(この日の夜、公園でねてたら一眼レフカメラを盗まれる。大学で一番泣いた夜。)

こんな感じで、ほぼ、47都道府県回ったので日本はだいたい制覇。人との出会いが何より楽しかった。野球以外に夢中になれるものを見つけた感覚がとても刺激的でした。

 

カメラにハマる。 (大学時代)

旅にハマり、夜景が携帯で撮れなかったことをきっかけに、一眼レフカメラを買いました。 
そして、このカメラで写真を撮ることにめちゃくちゃはまったんです。 

 

特に、自分と人とのコミュニケーションの手段になるという点について魅力を感じていました。

 

そして、カメラにもっとのめり込むきっかけが、世界中の愛を形にするという素敵なコンセプトを掲げているLovegraphのカメラマンとして働くことでした。

 

「どうやってカメラも学んだことないのに働けたの?」ってよく聞かれるんですが、確かに当時カメラの実力は皆無。

ただ、当時のLovegraphは、写真の技術云々ではなく、人を幸せにするという想いへの共感とコミュニケーションを大事にしてくれるカメラマンを募集要件としていたんです。(今はしっかり技術もみられるようになっている)

それをみてぼくは、今までの人生や旅での経験、写真を好きになった理由、そして何より人を大切にして、喜ばせたり楽しんでもらう自信だけはあったので応募したんです。 

 

すると、その思いが伝わって見事Lovegraphカメラマンとして採用。 
今思えば、相当ラッキーでかなり運が良かったと思います。 
Lovegraphの中で足りない技術等は学ばせてもらいながら、今度はカメラにハマる毎日がスタート。

 

写真を撮ることはもちろんのこと、やっぱり何より人とコミュニケーションを取ることが楽しく、自分が好きなことだと思うようになりました。 

 「好きなことで生きていきたい。」

それが根拠もなくできると思ったぼくはなんとなく大学休学を決意したんです。

 

好きなことで生きていく〜直感で休学〜(大学時代)

直感で休学してから、Lovegraphの撮影に合わせて、結婚式、子供撮影など写真にかかわる仕事に挑戦。

写真の仕事で食っていけるようになるぞと意気込んでいました。

また、写真の仕事と同時に休学する前から、インターネットと写真を組み合わせたら、なんか面白いことができそう!と思い、インターネットビジネスを学んでいました。

しかし、しばらくすると、決められた仕事で撮る写真に対して自分の熱量があがらないことに気づいたり、また、ネットビジネスは方向性の違いを感じて、そのコミュニティからもいつのまにか離れていきました。

その後は自分で写真の仕事を生み出すしかないと思って色々考えていましたが、教養もなくて、目標も明確じゃない自分に行動を起こすことはできませんでした。

気づいたら、生活費を稼がないと生きていけない状況になり、写真の仕事以外もアルバイトの毎日。
自分の無力さを思いっきり痛感しました。

 

いつのまにか休学期間は終了。「なんかよさそう」「なんかいけるぞ」という自分の中にある直感だけに従って、挑戦した自分の甘さを知る一年となりました。

 

就職活動をやってみる。

大学に復帰と同時に就職活動のスタート。

カメラの仕事を続けながら始めたアルバイトで営業が自分に向いていると思ったので、とにかく、募集職種で、営業職がある会社をみてエントリーしていきました。

そして結果は・・・・・・・・

なんと申し込んだ全ての会社から内定ゼロ。

心の底から会社に入る理由がわからなかったこともあり、中途半端な気持ちで受けてた自分が受からないのはあたりまえでした。

 

もちろん、周りに内定ゼロなんていうことは恥ずかしくていえるはずもなく、ひとりでめちゃくちゃ悩んでいたんです。

 

そもそも大学にはいれたんだ(大学4回生)

誰にも言い出せず、就活することに悩んでいる7月のこと、母から電話がかかってきました。
正直に、どこの会社にも内定をもらえてないことを打ち明けることにしたんです。

すると、

『もうお前はとりあえず大学卒業してくれ。』予想外な声をかけてくれました。

「そうか、そもそも関大これてるだけで奇跡だったわ」

 ぼくもそう素直に受け止めました。

高校も野球で入学、大学も指定校で入学と何かの節目にがんばれたことがない自分。

むしろ自分にとって幸せなことを周りと比べずにずっと続ける方が向いている。

開き直り方はめちゃダサいですが、この一言からなんのために会社に入るか分からない中、無理に就職活動をすることはやめようとおもったんです。

また、そんな時期に見ていたtwitterや本の情報から生き方の選択肢があることを知りました。

『よし、今自分の興味あることだけやろう。』

興味があったWebデザインを学んだり、SNSや本を通して、生き方、考え方と向き合い自分に必要だと思うことや、興味のあることに取り組んでいきました。

ちなみに、その間は誰とも連絡をとることもなく、とうとう2017年の誕生日はおめでとうメールが誰からもこなかったです笑

 

アホすぎて不安がない (大学卒業)

大学もなんとか卒業。周りからは、就職どうなった?やばくない?とか聞かれます。
前までは、その一言に一喜一憂していました。
しかし、本やSNSの情報を参考にして、自分の考えを吐き出してくうちに知っていくことで大きな不安を抱く必要はないと思ったんです。

 

また、人と比べないことも大事だと気づきました。刺激になる人は必要だけれど、そもそも人と違うのに比べることに意味はない。
だいたい悩みは何かと比べるからでてくるものです。

 

もちろん、周りの人と比べちゃうのは人間の性。でも、それがわかった上で自分の好きなことはもちろんのこと、実現したい目標や、課題解決のために生きるしかないと思うようになりました。

なぜなら、一番大きな不安は死ぬことだからです。死んじゃったら、終わり。
だったら、そんな目の前の小さな不安に左右されることが勿体無いし、時間の無駄なので自分がやりたいことをやったほうがいい。

てか、大前提として生きているだけでありがたいですもん。 まだまだ、相変わらず直感要素は強いですが、誰にも影響されずに強い自分を持って生きていきます。

その好きなことの手段としてブログを今書いているという感じです。以上2018年までのぼくの個人史でした。

追記、フリーランス一年目

とりあえず、卒業したものの、写真と並行してやっていた営業のお仕事をやめると言う事態になり、5月からは写真1本で活動していきました。

 

仕事は学生時代から活動していたLovegraphのお仕事を中心に、webサイト制作用の写真撮影やトラベル関係の企業案件をこなしながら
2018年はなんとか生きていくことができたんです

 

ただ、それと同時に写真だけで食べていくことの難しさを実感しました。
また、東京で活躍している刺激のある仲間に出会いこのままではいけないと思うようになっていたんです。

 

2019年

ここで道を決めなかったら、何者になりたいか分からずに生きていってしまう。

そう思って2019年に入り、以下記事に書いた内容のように自分と向き合い、人生の目標を考えました。

その中で、決めたのが個人を救うメンタルトレーナーとしての活動。心の奥底で誰に何を言われようとブレない、”ひとりぼっちの味方で居続ける”というテーマの元、個人を救える人間になれるよう行動していきます。

 

まずは今自分ができるフォトグラファーとしての道を極めながら、ブログなどの文章、youtubeなどの動画配信のスキルもつけていき、過去の自分を救うような情報を発信していけたらと思っています。

 

そして今の環境を一回飛び出したいという気持ちもあるのでどうにか行動に移していきたいと思っています。

 

以上ぼくの2019年までの個人史でした。